趣味としてのピアノ(その9)「戦争が運命を分けた2つのメーカー」(H17岸和田市医師会広報)  山本起義

 身近な社員が主人公でサラリーマンに人気のある番組、プロジェクトXNHKが放映の材料として採用する条件は、1)現在一流の有名メーカーになっていること。2)過去に2度の挫折を味わっていることだそうです。その中でヤマハピアノが取り上げられたのは記憶に新しい事です。現在、ヤマハ、カワイが公式ピアノとして世界のピアノコンクールで認められている状況は日本の技術力の高さを示すものですが、その一方で、かつて楠部尚先生から、車とか家電製品など「物造り」で評判が良くないアメリカでピアノだけは世界で高い評価を得ているのは何故かと尋ねられたことがありました。今回はその疑問に答えるべく2つのピアノメーカーのたどった運命について書かせていただきます。

ところで、ピアノのメーカーの話をする前に、少し、ピアノの構造についてご説明しましょう。図1はピアノの基本骨格でピアノ線というワイヤーのような弦がピンとピンの間に張られています。弦は低音部では長く太い巻線が使われますので大きな音が出ます。高音部は弦が短く張られて小さな音しか出ないので3本(ブリュトナー社では4本)の弦が同じ音を出すように張られています。それで一般のピアノ88鍵に対応する弦は相当の本数になり、全体では何トンにもなる張力に耐えられる頑丈な鋼鉄製のフレームがピアノに必要になります。弦の音を響板に伝える役目はピンではなくコマがします。それから、図1の左のピンは弦を支えるだけの役目ですが、右(Tピン)は弦の張力を変化させて音程を整えるチューニングピンの役目をしています。多くのピアノは1本の弦をチューニングピンから次のチューニングピンまで支えのピンを介してU字型に張って2本の弦として使用しています。するとこのU字型の左右2本の弦の張力は当然同じとなります、同じ長さで同じ張力で太さの同じ弦は同じ音しか出ません。ところが一つの鍵盤に3本ずつ対応する弦を張ってゆくと、困ったことに1本の弦でU字型の左の弦はド、右の弦はド#という違った音を出さないといけないようなことが起こってまいります。そこで、登場するのがアグラフの役目です。

 

 

2のようにアグラフをピンの間におくことでコマからピンまでの長さではなく、コマからアグラフまでの弦の長さで個々の弦の音程を正確に決めることが出来ます。(写真はアグラフを通してチューニングピンにとめられた巻き線)いまでもアップライトピアノではすべての弦にアグラフがついている(総アグラフ)のが多いようですが、宮廷のサロン音楽が中心の時代から、フランス革命以降、市民が大ホールで演奏会を聴くという形式に変わり、それに対応する音量が出るピアノが求められるようになり、特にピアノの高音部は短い弦を三本合わせても音量が不足したため、グランドピアノではカポダストローバ方式が考案されて、現代では総アグラフを用いたものは殆どないそうです。

カポダストローバとは図3のようにアグラフの代わりにフレームの形を変えたもので弦を押さえるようにしたもので、この方式の長所は、音程はコマからカポダストローバまでの長さで決定され、設計さえ正しければアグラフより製造工程が簡略できることと、カポダストローバよりフレームへ音が伝わることにより、フレームと共鳴してより大きな音が得られることです。逆に短所はカポダストローバの共鳴が近辺の弦まで影響して鳴らしてしまうことにより、音の分離感が損なわれてしまうことです。それで音の貧弱な高音部にカポダストローバ、十分に音量がある低音部は音の正確さを期すためにアグラフが写真のように使われています。

さて、第二次世界大戦前はベヒシュタイン、ブリュトナー、ベーゼンドルファーが日本における最高のピアノの代名詞でした。そのベヒシュタインはグランドピアノでは家2軒分くらいの値段のものもあったようです。

 ベヒシュタインの創始者カール・ベヒシュタイン(1826-1900)はプロイセン(ドイツ)のチューリンゲンに生まれ幼少よりピアノのレッスンを受け10歳半ばには修行の旅に出かけ、アンリ・ハープ(交差弦、フェルトハンマーの考案者)のいるパリから技術を持ち帰り1853年にベルリンに「ベヒシュタインピアノ工場」を設立しました。カールはリスト、ハンス・フォン・ビューロー、ワーグナー等の交流から得た要求に答えるべく改良を加えることで評価を得たと言われております。

特に現在の殆どのグランドピアノが採用しているカポダストローバを採用せず、最近になるまで総アグラフを採用していたことが、ベヒシュタインピアノの特徴を決定付けているようで、音の分離感がよく濁りのない色彩と変化に富んだ透明な音を生んでいることは、ポリフォニーを必要とする多くの音楽家から高い評価を得ていました。しかし、ゲルマン民族の栄光と誇りのピアノとしてナチスの広告に利用されたため、ベルリン工場は連合軍によって徹底的に壊されました。ナチスへの拒絶反応が生んだ行動であったといわれています。それで、ベヒシュタインピアノはアメリカのボールドウイン社の手にわたり、近年までは、ベヒシュタインは素晴らしいが過去のものだとまでいわれておりました。

しかし、1986年ピアノマイスターであるカール・シュルツ(現社長)により、ベヒシュタインピアノが再びドイツの手に戻され、1989年11月9日ベルリンの壁崩壊後、旧東ドイツライプツィヒのブランド「ツィンマーマン」と「ホフマン」を吸収してベヒシュタイングループを設立し、経営基盤はこれらの中価格帯のピアノの販売で安定させ、現在に至るという、波乱万丈の運命をたどったのがベヒシュタインです。

もう一方のスタインウェイの創始者ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーグ(1797−1871)はドイツ中央部ブラウンシュバイクの南にある、ハルツ山地の森林保安官の息子として誕生しますが、ナポレオン戦争の災禍で母と兄弟、落雷で父と兄を亡くし、15歳で孤児となったハインリッヒはウォーターローの戦いでラッパ手をつとめ、楽器に興味を持つようになり、オルガン職人となり、パイプオルガン製作に携わるなか、当時流行しつつあったピアノに感動し、以来ピアノ作りに没頭し第1号を1836年に完成しました。

53歳のハインリッヒには長男テオドール(25歳)、次男のカール(21歳)、3男ハインリッヒJr(18歳)、4男のウィルヘルム(14歳)がおりました。1842年に起こった革命では政情不安と農業政策の失敗により物価が高騰し市民生活は逼迫し、ハインリッヒはピアノ製作の断念を余儀なくされます。それで語学に堪能で先にアメリカに渡っていた次男カールが、アメリカでピアノ製作することを勧めたため、一家は長男のだけを故郷のゼーセンに残しニューヨークに渡ります。そして、アメリカに永住することを決めた一家は、名前も英語読みになおし、ハインリッヒはヘンリーに、カールはチャールズに、ウィルヘルムはウィリアムに、シュタインヴェーグは(ストーンウェイとはせず)スタインウェイとし、スタインウェイの名称が誕生しました。1861〜1965年の南北戦争、市民暴動、労働者のストライキなど順風満帆とは行かず、1865年の三男ヘンリーJr、次男のチャールズが相次いで亡くなり、一家の大打撃となったとき、ドイツに1人残りピアノ製造を続けていた長男テオドールが急遽ニューヨークに呼び寄せられスタインウェイ社の活気をよみがえらせました。その後、1880年にハンブルグに工場を建設し、ニューヨークとハンブルグの2箇所から世界へピアノが輸出されるようになりました。したがって、スタインウェイ&サンズ社は文字通り息子たちの活躍なしには語れない会社です。

ベヒシュタインがドイツのメーカーであったことが戦後凋落の原因に、そして、スタインウェイはドイツからアメリカへ移住したことが、戦後繁栄を決定付けたといえるでしょう。しかし、さしものスタインウェイも高級路線一本やりでは経営的に苦しく、ベヒシュタインがしたのと同じくスタインウェイも中価格帯の「ボストン」をカワイに作らせて経営を安定化させようとしていますし、一方のベヒシュタインは2003年にこだわり続けた総アグラフからスタインウェイと同じカポダストローバを採用したD280B210M/P192L162という製品を出してきました。2つのメーカーは互いに違った紆余曲折を経ながら結局落ち着く先が同じようであり、感慨深いものがあります。