趣味としてのピアノ(その5)ショパンの病(H13岸和田市医師会広報)
                          山本眼科  山 本 起 義
  ショパン(1810 〜1849) の音楽は、ピアノを語るとき、彼抜きには考えられない程
世界中で愛されております。私も、子供の頃からの憧れの曲と言えばバダジェスカの
「乙女の祈り」とショパンの「英雄ポロネーズ」でした。今にして思えば、音楽的にも
技術的にもかけ離れたものを知らずに選んでおりました。NHKの日本人の質問によれば
ポーランドの女流作曲家バダジェスカの曲は、主に通俗作品で、有名な「乙女の祈り」
の他「叶えられた喜び」と言う曲もあって「乙女の祈り」は意中の男性と結婚出来ます
ようにと言う祈り、そして「叶えられた喜び」は意中の男性と結婚できた喜びの曲だ
そうです。「叶えられた喜び」を聴いたのは初めてでしたが、ポーランドの雰囲気を
醸しだす劇的な前奏をもつ曲でした。バダジェスカとショパンはポーランド
の作曲家と言う共通項、そして、チャイコフスキー、スクリャービン、ラフマニノフ、
アディンセルのワルシャワ協奏曲と私好みの曲を羅列してみて、スラブ民族の曲あるいは
スラブ風の劇的な曲が自分の好みの曲である事に最近気づきました。その中でも、
ローマカトリックを奉じるスラブ民族の国ポーランド(平らな土地)はしばしば、
他民族に征服され滅亡し、5回の蜂起も全て失敗に終わるなどされ悲哀、辛酸を
なめた歴史があり、その哀愁的なメロディーはものの哀れを理解する日本人の心をとらえて
離さないものがあります。
 その、ショパンですが、1999年には没後 150年、ポーランドと日本国交樹立80周年など
から、オールショパンプログラムの演奏会、ショパン演奏講習会、ショパン最後の地、
パリのマドレーヌ教会にてショパンの葬儀の再現、ワルシャワ音楽院、パリ音楽院での
レッスン、ショパンの生家でのプライベートコンサートなどが開催され、又、2000年は
ショパン生誕 190年でしたし、5年毎に開催されるワルシャワのショパンコンクールで
は1985年のスタニスラフ・ブーニン以降出なかった1位を何としても出すと言うポーランド
の意気込みのもと、中国人のリ・ユンディが1位になるなど話題に事欠かない二年間
が終わり、21世紀に突入致しました。
 ショパンはジェラゾヴァ・ヴォラと言うワルシャワ近郊の村で生まれ、20歳で向学心
と巧名心によりパリに移り、女流作家ジョルジュ・サンドと1847年冬の破局に至る迄共に
生活し、その後、ロンドン、そしてパリで1849年10月17日午前2 時に永遠の眠りに
ついたのです。長らく、ショパンの死因は結核であると考えられておりましたが、
最近になってこれを覆す論文1)とその訳5)が出ましたので紹介いたします。

 家族歴
 父親のニコラ・ショパンはフランス人で呼吸器疾患を繰り返し、73歳で肺と心臓病
で没、母はユスティナはポーランド人で77歳の生涯健康、ショパンには3姉妹があり、
姉のルドヴィカは生涯、再発性呼吸器感染症に悩まされながら47歳で没、妹のイサベラ
は70歳の生涯健康、一番歳下のエミリアは11歳より息切れ、体重減少、肺炎、喘息、
吐血を繰り返す虚弱児で14歳に上部消化管出血で没となっています。

  病 歴
 ショパンもエミリア同様に10歳代より呼吸器症状、下痢、体重減少で苦しみ、
16歳には半年間患い、1830年20才の時にもありましたがその時期に当時でポーランド
から1年かかるとされていたパリへと旅立っております。又、1831年、1835年にも患って
います。1836年にはリストの紹介で、ジョルジュ・サンドを知りますが、翌年1837年には
インフルエンザがパリで大流行しその年の2月高熱、喀血、吐血でショパンは数週間床
につく羽目になっています。この時のかかりつけ医師ドクター・ゴーベルトは結核ではないが、
ショパンの為には温暖な気候の方がよいと助言し、厳しい冬を避ける為、ジョルジュ・
サンドの看護のもとマジョルカ島に移ります。島の住民と家主は伝染病と思い、ショパン
とジョルジュ・サンドに家を立ち退くよう要求し、結局ヴァルデモーザに旅立ちましたが、
症状は1839年1月まで続きました。当時の事をジョルジュ・サンドは「ショパンにとって、
脂っこい食品は不消化で下痢の原因になるので、体にあったものを見つけるのに大変苦労する」
と書き残しております。ショパンの症状は1840年以降目に見えて悪化し体重も約44kg程に
痩せひどい咳と痛みの続く日々が1843年の冬から1844年の春まで続きました。この
ジョルジュ・サンドと暮らしていた日々は、ショパンの作曲活動が最も充実して
いた時期にあたりますが、1847年冬、再び同様の症状が続き、しかも、ジョルジュ・サンド
との関係も破局に陥りました。サンドと先夫の間に息子のモーリスと娘のソランジュがおり、
成長したモーリスは、ショパンに尽くす母サンドを快く思わず、困らせますし、
年頃になり母サンドと折り合いが悪かったソランジュは、ショパンに好意を寄せはじめ、又、
サンドの悩みになります。そうこうするうち、ソランジュは貧乏彫刻家クレサンジェと結婚
してしまい、借金で首がまわらなくなったクレサンジェは、ノアンにあるサンドの館を抵当
に入れるように強要し、気丈なサンドは平手打ちを食わせますと、暴れ出し、
そこへモーリスがクレサンジェにピストルを突きつけると言う騒然たる場面を演じます。
幸いパリに居て、その場に居合わせなかったショパンのもとへ、事の顛末をしたためた
サンドの手紙が届くと、ショパンはもっと母親らしい愛情をソランジュに注ぐように言った為、
サンドは激怒し、子供たちには良い肉をショパンは肉の端の方を食事として出したとかで、
プライドの高いショパンも流石に我慢出来ず二人の破局を迎えます。運命の皮肉というか、
ショパンは病の悪化の中で、一番必要とする人と離別しなければならない事になり、1848年
ショパンは病気のまま、英国へ旅立つ事になります。4 月にはエディンバラを訪れるくらい
気分が良くなった時期も有りますが、1848年11月には再び悪化し、パリに戻ります。1849年
夏、当時のパリはコレラが流行していた為、住居をパリ郊外に移しますが、9月末には最後の
地パリのバンドーム広場12番地に移します。リストによれば、最後のアパートに移り亡くなる
まで、3 週間程しかなく、ショパンが亡くなったまさにその日に家具が届いたそうです。
10月12日の夜、いよいよ最期と思われた為、コービィエール
医師はポーランド人の司祭のアレキサンダー牧師にすぐに呼び、牧師は来ましたが、翌日の
聖エドワード祭の為に引き返したところ、ショパンから朝食を一緒にとりたいとの
招きをうけ大層驚いたようです。ショパンが容体を持ち直したようでした。
この時の話をアレキサンダー牧師が後に語った所では、牧師が彼に十字架をわたしてから 
ひざまづくと、ショパンが告白して正餐をもとめ、友人を部屋に呼び入れました。
プリンセス・マルナリが死に行く者に対して詠唱し、他の者達がそれを繰り返しました。
ショパンの頬に涙がつたい、音楽を奏でるように告げると、プリンセス・マルナリと
フランショムがソナタ、ト短調を演奏しはじめましたが、数小節弾いたところでショパンが
咳の発作に見舞われた為、中断せざるを得ませんでした。
この断末魔の苦しみは4 日間にわたり続いたのですが、ショパンの意識ははっきりして
いました。10月15日の夜、ショパンの容体が悪化し、夜半突然声がしわがれて話せなくなり、
時折意識を失うようになりました。翌日、自分の原稿と私信に関し最期とも思える指示を
与え、姉のルドヴィカには自分の心臓をワルシャワの地に送るよう、そして告別式では
モーツアルトのレクイエムを奏するようにと希望を伝えたのでした。痙攣を伴う激しい
苦痛の発作と睡魔を繰り返し10月17日自分の側に誰がいるのか尋ね、返事をした友人
グートマンの手に接吻をした後、午前2 時永眠しました。コービィエール医師が死を
確認し、死亡診断書の死因に「肺及び咽頭部の結核」と書き入れました。ショパンの葬儀は
パリのマドレーヌ教会で約4000人の人々が広場をうめる尽くす中で執り行われ、
彼の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に、心臓はポーランドへ送られ、ワルシャワの
サント・クロウ教会に安置されました。

  剖 検
 コービィエール医師の剖検報告は紛失されたままです。しかしジェーン・スターリング
はリストへの返事に、コービエール医師が「検視の結果では、死の直接の原因となるもの
など何一つなく、ショパンの肺は心臓ほどには侵されていなかった。これは、私がかつて
経験した事のない病気です。」と述べていたと言う事。そして、ルドヴィカ・ショパンも
「死因を明らかにする事は出来なかった。・・・にも拘らず彼は生きる長らえる事が出来
なかった。病理学からは・・・心肥大・・・肺の消耗は明らかではなかった。・・・長期
間の持続による肺の変化・・・かつて経験した事のない病気だった。」とコービィエール
医師より聞いています。

 考 按
ショパンの症状の要約
1)10頃に始まる咳、呼吸困難、喀血、チアノーゼ。
2)全身症状:運動機能低下、疲労、衰弱、体重減少、顔面蒼白、色素沈着、末梢性浮腫
筋力低下、黄疸。
3)消化器症状:下痢、脂肪食の消化不良、吐血
4)太鼓ばち指6)〔多くはチアノーゼを伴い、慢性閉塞性肺疾患、肺腫瘍、亜急性心内膜
炎先天性心疾患(チアノーゼ型)、肝硬変、ネフローゼ症候群、慢性下痢でみられ、
先天性のものもある〕は認めず。
  以下、様々な鑑別診断が記載されておりますが、原文の翻訳5)出来れば原文1)をお読み
頂くとしまして、私の感想を含めまして述べさせて頂きますと、ショパンの家族には呼吸
器疾患が多い事と、呼吸器疾患に悩み、14才で上部消化管の大量出血により亡くなった
エミリアとショパンの症状が極めて似通っており、肝疾患を患って門脈圧の亢進から上部
消化管出血を起こしたと考えると、閉塞性肺疾患と肝疾患を伴う先天性疾患が疑われ
ます。ショパンの症状の経過は、急に悪化するかと思えば急に改善すると言う事の繰り
返しがあり、その経過中に感染症を起こしたと思われる発熱のため、病気を長期化させて
いる印象がありますので、結核のような慢性経過をとる疾患よりも、喘息や肺気腫を思わ
せる症状です。外科学、解剖学、病理解剖の教授を歴任し、結核、その他の医学著書も多く
当時のフランス医学界の権威的存在であったコールビィエール医師が、死亡診断書でなぜ
「結核」と記載したかは分かりませんが、「コービィエール医師はショパンが結核ではない
と確信していた」と言う事を彼の助手、スターリング女史、ルドヴィカ・ショパンが
一様に聞いていた事を総合しますと、病理解剖と結核の権威であった彼が死因が結核であった
とは思っていなかった事が示唆されます。だいいち、24年間もだれもショパンを
結核と診断出来ずに放置していた事など考えにくい事です。

 結 論
 この著者の意見としまして、α1-アンチトリプシン欠損症(α1-AT)と嚢胞性線維症
 (Cystic Fibrosis:CF)がショパンの病気で、特に前者の可能性が高いとしております。
 α1-アンチトリプシン欠損症(α1-AT)は1963年Laurell,Erikssonによりα1-グロブ
リン分画に欠損のある症例を発表し、それ契機に、後に、喘息、慢性気管支炎、肺気腫
の集積する家系、そして肝硬変を伴う家系が相次いで報告されました。2)現在では
慢性閉塞性肺疾患と慢性肝疾患が2大病態とみなされております。α1-ATは肝細胞で
生合成され、血清中に分泌され主要なプロテアーゼインイビターとして、種々の炎症時に
血中に増加し肺などで慢性的な炎症が起きますと、好中球や肺胞マクロファージが遊走、
貪食が起こり細胞壊死により、白血球由来のエラスターゼやカテプシンGが分泌されますが
、α1-ATが十分にないとこれらのプロテアーゼを十分に阻害出来ず、エラスターゼ
により肺胞間質蛋白のエラスチンが分解されて、組織障害から肺気腫が発生すると考えられ2)3)
肝障害に関しては、肺と同様の機序で起こる説とα1-ATの前駆体蛋白の肝臓蓄積による肝
細胞の直接障害説があります。α1-ATの遺伝子は第14番常染色体長腕の遠位端にあり、
成長障害と膵障害にも関係1)しています。
  嚢胞性線維症(Cystic Fibrosis:CF)は小児、若年者に発症する常染色体劣性遺伝性疾患で、
そのCFTR(cyctic fibrosis transmembrane conductance regulator) 遺伝子は第7
染色体長腕に存在します。4)5)呼吸器、膵、消化管などの外分泌腺の機能異常を特徴とし新生児
期のメコニウムイレウス、膵外分泌異常による栄養失調などを呈し、気道粘液の
電解質濃度が高く、気道粘液中の抗菌物質の活性が下がり、細菌が繁殖し易くなる結果
死因の90%以上は難治性の慢性気道感染症(特に緑膿菌)による呼吸不全です。
抗生物質もないショパンの時代には10才までにほとんどの子が死に、生き残る事は困難
ですが、ショパンが軽いCFであった可能性はあります。

 終わりに
 ロマン派の作曲家で、ロマンス、優雅な作曲家生活をし最後に恋の破局と病死と言う
イメージで語られがちなショパンでしたが、こんなにひどい療養生活を強いられながら
作曲していたとは夢にも思いませんでした。11年間も一緒にジョルジュ・サンドと
暮らしたのに子供も出来ないなんて、ショパンの潔癖性格のためだなどと説明される
事もありますが、とても、そんな蜜月の生活をおくってはいなかった事がよく分かり
ました。又、当時、女性が独立すると言う事は大変な事で、作家として身を立てて
名前もジョルジュ・サンドと男性の名前にし、服装も男装をして、嫌われたジョルジュ・
サンドでしたが、献身的な看病をショパンにした事に頭が下がります。ショパンは
病気で発熱し気分が悪く、仕事ははかどらない自分に苛立っていたのに、肉の端を出
された事でムカッとなったのでしょか真偽の程は定かでは有りませんが、二人の破局は
きっと、ショパンの寿命を縮める事になったのでしょう。私もこの歳になって、ワルター・
ハウツィヒ(元米国ピボディー音楽院教授)、セルゲイ・ドレンスキー(モスクワ
音楽院教授)、リディア・コズベック(ワルシャワ音楽院教授)と集中的にピアノを
習う機会を得て、様々な先生のショパンの解釈に触れましたが、このようなショパンの
病状を知った上で、改めてショパンを弾いて見ますと、何故このように作曲してのかがよく
分かるような気がします。亡くなる2日前に遺言を残し39歳で亡くなったショパンを思い
ながら、ショパンの曲を練習致す今日この頃です。

  文 献
1)Kubba AK et al:The long suffering of Frederic Chopin Chest113 210,1998
2)三宅和彦: α1-アンチトリプシン欠乏症 別冊 日本臨床
  19先天性代謝異常症候群(下巻)631,1998
3)田澤立之ほか:呼吸器疾患と遺伝子異常 現代医療29 1741,1997
4)福地義之助ほか:呼吸器疾患 内科80 1100,1997
5)永井美保子:フレデリック・ショパン生涯にわたる病魔の苦しみの中から 
  ショパン16-5 92,1999
6)吉利 和:金芳堂 新内科診断学第3版 43,1976